Sound Horizon『Roman』の暗号とゲーム的表現

Sound Horizonの5th Story CD『Roman』は、特殊な構造をしている。それは、そのままCDを一周聴いても楽しめるが、更に作品内に隠されたメッセージが存在し、それを見つけることで終曲をより楽しむことができるというシステムだ。そのメッセージはただ聴いただけでは分からないようになっており、見つけるには歌詞を読まなくてはならないようになっている(歌詞に暗号化された数字が鏤められており、それを解読することが必要なため)。

この構造には、どこかしら真のグッド・エンドを目指して行動するゲーム的な構造が感じられる。ゲームにおけるこの構造は、例えばPSのゲーム『クロノ・クロス』のエンディングを思い起こす。『クロノ・クロス』のエンディングは、ラスボスの倒し方によって変化する仕組みになっている。ラスボスを武力で倒した場合と、特殊な方法で倒した場合とで、どちらもエンディングにはたどり着けるが、後者が真のエンディングとなっている。その真のエンディングにたどり着くための特殊な方法はゲーム中ではとても抽象的にしか与えられないため、深く考えずにゲームを進めるとそのヒントに気がつかず前者のエンディング(これは後者のものと比べるとひどくあっさりした印象を受ける)へと進んでしまう。しかし、答えを見抜き真のエンディングへたどり着いた時の喜びはより深いものになることだろう。

『Roman』の暗号も、(理解できなくても感動的ではあるが、)解読できるとより深い感動を得られることだろう。聴取者へ積極的な解釈(行動)を求める『Roman』のこのようなゲーム的表現(「ゲーム的リアリズム」?)は、Sound Horizonの音楽の独自性の一つと言えると思われる。

Sound Horizon『Moira』の《詩女神六姉妹》と教会旋法

先日買ってきたSound Horizonの《Moira》がオリコンデイリーランキングで1位になっていたようだ。売り上げ等の詳細は、ここ等を参考にしてほしい。これまで売れるCDというのは、人気歌手・アイドルの歌や、TVドラマとかの主題歌ばかりで、似たような音楽ばかりという印象があった。それだけに、このいわゆるポピュラー音楽とはひと味もふた味も違うSound Horizonの音楽が売れているというのは意外だった。もちろん言うまでもないことだが、筆者はこの現象を肯定的にとらえようと思っている。

ここで、Sound Horizonの魅力について語ってもいいのだが、それはここなんかでも活発に行われていると思われるので、一旦割愛としておこう。

さて、ここから本題に入る。《Moira》の3曲目「神話」の3分過ぎから、《詩女神六姉妹》の登場(紹介?)の場面がある。名前とともに短いメロディを歌詞なしで歌うのだが、この名前とメロディに関連があることを発見した。

名前は長女から、イオニア、ドリア、フリギア、リディア、エオリア、ロクリアだが、この名前は全てクラシック音楽教会旋法に対応するものがある。イオニア旋法、ドリア旋法、フリギア旋法、リディア旋法、エオリア旋法、ロクリア旋法がそれだ。そして、この「神話」で《詩女神六姉妹》が一人ずつソロで歌う場面、たった8小節ずつのことだが、イオニアの歌はイオニア旋法で、ドリアの歌はドリア旋法で……といったようにそれぞれその名前の旋法で歌われている。

もう少し説明すると、

イオニアの歌の構成音を、低い方からドイツ語音名で音階に並べると、C,D,E,F,G,A,H,C,D,Eとなり、これはCを終止音するイオニア旋法と考えられる。
同様にドリアの歌は、G,A,H,C,D,E,F,G,Aで、Dを終止音とするドリア旋法、
フリギアの歌は、E,F,G,A,H,C,D,Eで、Eを終止音とするフリギア旋法、
リディアの歌は、C,D,E,Fis,G,Aで、Cを終止音とするリディア旋法、
エオリアの歌は、D,E,F,G,A,H,C,D,E,Fで、Aを終止音とするエオリア旋法、
ロクリアの歌は、H,C,D,E,F,G,A,Hで、Hを終止音とするロクリア旋法だ。

このように、作品の細かい部分にまできちんと考えられて作られている。これはSound Horizon作品の醍醐味と言えるだろう。

《崖の上のポニョ》の音程が外れていることについて

少し前、『崖の上のポニョ』のテーマソング《崖の上のポニョ》が話題になっていた。「ポーニョポーニョポニョ……」という歌いだしが特徴的な歌だ。この歌は、数回聴いただけで冒頭部分が頭に焼き付き、いつの間にか口ずさんでしまうような不思議な魅力を持っている。

この曲は、歌詞、メロディー、ハーモニー、リズムのどれもが単純な構造をしている。しかし、歌の音程はかなり外れている。このことは、この曲におけるひとつの特徴といえるだろう。

現代の音楽の主要な受容のされ方というのは、録音された音源を聴くことだ。CDやmp3などに限らず、テレビで流れている音楽も録音されたものを流している場合が圧倒的に多いだろう。このように録音によって音楽を作る場合、何度でも取り直してよいものだけを採用することができる。つまり、一番うまい演奏(歌)を完成品にすることができるのだ。

しかし、『ポニョ』の歌はどう聴いてもうまいという表現とは別の次元にあるようだ。やろうと思えば、完全に音程のあったテイクを採用することもできたはずだが、それをしていない。ここには何か意図があるはずだ。

ところで、音程をわざと外した歌はこの『ポニョ』が初めてではない。筆者が思いついたところでは、数年前のアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の挿入歌《恋のミクル伝説》にも同様の現象があった。この歌も、わざと音程を外し、更にリズムに乗り損ねている。しかし、この曲の場合それはデメリットにはならず、歌い手*1の不器用さが愛嬌として、萌えとして受け止められ、むしろメリットとなっているのだ。

『ポニョ』の場合も同様の考えができないだろうか。子供の音程の外れた歌をそのまま使うことによって、子供的なかわいらしさが強調され、きっちり正確な音程で歌いきる以上の効果が現れる。そのような可能性を《崖の上のポニョ》を聴いて感じた。

正確なものも作れるのに敢えてそれをしない。録音編集技術が発達した今日に現れたこのような手法は、音楽の新しい可能性を生み出しうるのだろうか。

*1:恋のミクル伝説》は作中歌であり、キャラソンのジャンルに入るので、この場合の「歌い手」とは実際に歌った歌手ではなく作中のキャラクターを指す。